ディープブルーから見る脅威

サメを人工飼育した結果

ドキュメンタリー映画を通してみれば海洋生物達も人間が、自分たちに‘害をもたらさない者ではないと認識すれば襲い掛かってくることはない’、これは間違いではありません。そのためには何もせず、一定の距離感を持ってして観察に徹するのが掟だ。それを一歩でも協定破りをしたなら最悪、まだ幼い動物の赤ちゃんが死亡するという結末をもたらしてしまいます。人間だろうと動物だろうと、まだ親の手無くして生きていくことが出来ない状態なら、助けはどうしても必要だ。

また人間の世界において動物たちの種を存続させる目的にと、動物を人工的に育てているケースもあります。飼育された動物は人間が自分たちの餌を用意してくれることを理解したなら、心を開くものだ。しかし人間と一緒に暮らすにしても、距離感は大事だ。ペットにしても彼らには彼らの時間があり、それを害すれば当たり前だが攻撃されてしまいます。ただ幸いなことに、人間並みの知能を持っているわけではないので、飼育もしっかりと教え込んでいれば問題ない。

だがある映画では、サメを人工的に飼育していたがある時人間に脅威を振るったことから始まるパニック映画ある。『ディープブルー』という1999年に制作された作品もまた、動物を無碍に扱ったことから起きた悲劇的な事件をテーマにした作品となっています。

映画のお供に

作品概要

今作の特徴としては、サメを人工的に飼育している点がそれまでのパニック映画になかった展開といえます。後に多くのサメが敵の主力映画はたくさん見られるものの、ディープブルーのようにサメを人間が飼育・実験としているケースはあまりない。ただただサメ達の獰猛さによって人間たちが駆逐されていくわけですが、今作における主人公は助けるどころか、サメたちの食事を後押しするような、そんな光景が見られるのだ。

では最初に簡単な物語のあらすじから紹介していこう。

あらすじ

元は米海軍の潜水艦の補給所だったところを民間の医学研究施設として解説されたアクアティカ。そこではアルツハイマー病などの研究を行っていた科学者のスーザンが、飼育されているサメの脳細胞を元にして治療薬の開発に励んでいた。だが飼育していた内一匹のサメが脱走して、海水浴をしてた遊んでいた若者を襲撃するという事件が発生・施設の存続そのものが危うくなってしまいます。

やがてオーナーであるラッセルから研究資金の援助凍結と施設の完全閉鎖が通告されたことで、スーザンは焦る。そして彼女は最後の最後で残されたサメの番を用いて研究の完成を証明するために水の番人と称されるカーターを呼ぶ。その後ラッセルにも施設で研究結果を見せつけるために彼を呼び、その成果を示した。結果はアルツハイマー患者の脳に対して予想以上の効果をもたらしたため、実験は大成功に包まれる。

飼育していたサメ、その第三世代となるサメにより研究は成功したものの、そこで研究者の1人であるジムが突如としてサメに片腕を食いちぎられるアクシデントが起こった。このサメは生かしておけないとしてカーターは銃を取るも、スーザンがそれを制する。あまつさえ彼女はそのサメを水槽に戻すという暴挙に出るという行動をとった。彼女の行動を避難するカーター、このままでは終わらない気がするという危惧は予想通りの展開を生み、血の味を覚えた獰猛なサメはその牙を人間たちに向け始めるのだった。

主人公によって

今作では自然界のサメが襲い掛かってくるのではなく、人間によって生かされていたサメが牙をむく話となっています。それも主人公であり、施設の中心人物たる研究者のスーザンが全ての元凶というパターンだ。まさかの主人公が最悪のパニックを生み出してしまったのだ。彼女の行動により、作中に登場する多くの登場人物たちが死に瀕する羽目になり、その牙は確実に生き残っている職員たちへと向けられていきます。

主人公がスーザンですが、同時にカーターという黒人男性が言うなれば『正義』側に位置しているもう一人の主人公だ。事実、彼がいなければ登場人物の全てがサメに捕食されてしまい、デッドエンドとなっていたに違いありません。助けられなかったのか、というよりは絶望的な状況下ではまずカーターそのものが生存するためにも歩まなければならない、かなり切迫した状況なのです。

自然サイコーーーー!

こちらも大ヒット

そしてどうやらサメのパニック映画というものは、トコトンアメリカでは人気を呼ぶようでこちらも大ヒットしているのです。日本でも久しぶりに、今度は人工的に飼育されてきたサメが血の味を覚えたことで人間を、まるで生き餌を与えられて喜んで貪る鳥のように鋭利な牙で無残に噛みちぎり、慟哭を上げる間もなくその場を鮮血の海へと変色させていく。他人を助けるために自分の命、そして主人公に至っては自分は間違ってはいないと思っていたが、最終的に彼女を待ち構えている結果は因果応報とでもいうべき結末だった。